三
三
村役場の一夜はさびしかった。小使の室にかれは寝ることになった。日のくれぐれに、勝手口から井戸のそばに出て、平野をめぐる遠い山々のくらくなるのを眺めていると、身も引き入れられるような哀愁がそれとなく心をおそって来る。父母のことがひしひしと思い出された。幼いころは兄弟も多かった。そのころ父は足利で呉服屋をしていた。財産もかなり豊かであった。七歳の時没落して熊谷に来た時のことをかれはおぼろげながら覚えている。母親の泣いたのを不思議に思ったのをも覚えている。今は――兄も弟も死んでしまって自分一人になった今は、家庭の関係についても、他の学友のような自由なことはいっていられない。人のいい父親と弱々しく情愛の深い母親とを持ったこの身は、生まれながらにしてすでに薄倖の運命を得てきたのである。こう思うと、例のセンチメンタルな感情が激しく胸に迫ってきて、涙がおのずと押すように出る。
近い森や道や畠は名残りなく暮れても、遠い山々の頂はまだ明るかった。浅間の煙が刷毛ではいたように夕焼けの空になびいて、その末がぼかしたように広くひろがり渡った。蛙の声がそこにもここにも聞こえ出した。
ところどころの農家に灯がとぼって、唄をうたって行く声がどこか遠くで聞こえる。
かれはじっと立ちつくしていた。
ふと前の榛の並木のあたりに、人の来る気勢がしたと思うと、華やかに笑う声がして、足音がばたばたと聞こえる。小川屋に弁当と夜具を取りに行った小使が帰って来たのだと思っていると、夕闇の中から大きな夜具を被いた黒い影が浮き出すように動いて来て、そのあとに女らしい影がちょこちょこついて来た。
小使は室のうちにドサリと夜具を置いて、さも重かったというように呼吸をついたが、昼間掃除しておいた三分心の洋燈に火をとぼした。あたりは急に明るくなった。
「ご苦労でした」
こう言って、清三が戸内にはいって来た。
このとき、清三はそこに立っている娘の色白の顔を見た。娘は携えて来た弁当をそこに置いて、急に明るくなった一室をまぶしそうに見渡した。
「お種坊、遊んでいくが好いや」
小使はこんなことを言った。娘はにこにこと笑ってみせた。評判な美しさというほどでもないが、眉のところに人に好かれるように艶なところがあって、豊かな肉づきが頬にも腕にもあらわに見えた。
「お母、加減が悪いって聞いたが、どうだい。もういいかな」
「ああ」
「風邪だんべい」
「寒い思いをしてはいけないいけないッて言っても、仮寝なぞしているもんだから……風邪を引いちゃったんさ……」
「お母、いい気だからなア」
「ほんとうに困るよ」
「でも、お種坊はかせぎものだから、お母、楽ができらアな」
娘は黙って笑った。
しばらくして、
「お客様の弁当は、明日も持って来るんだんべいか」
「そうよ」
「それじゃ、お休み」
と娘は帰りかけると、
「まア、いいじゃねえか、遊んでいけやな」
「遊んでなんかいられねえ、これから跡仕舞いしねきゃなんねえ……それだらお休み」と出て行ってしまう。
弁当には玉子焼きと漬け物とが入れられてあった。小使は出流れの温い茶をついでくれた。やがて爺はわきに行って、内職の藁を打ち始めた。夜はしんとしている。蛙の声に家も身も埋めらるるように感じた。かれは想像にもつかれ、さりとて読むべき雑誌も持って来なかったので、包みの中から洋紙を横綴にした手帳を出して、鉛筆で日記をつけ出した。
四月二十五日と前の日に続けて書いて、ふと思いついて鉛筆を倒にして、ゴムでゴシゴシ消した。今日は少なくとも一生のうちで新しい生活にはいる記念の第一日である。小説ならば、編が改まるところである。で、かれは頁の裏を半分白いままにしておいて、次の頁から新たに書き始めた。
四月二十五日、(弥勒にて)……
一頁ほど簡単に書き終わって、ついでに今日の費用を数えてみた。新郷で買った天狗煙草が十銭、途中の車代が三十銭、清心丹が五銭、学校で取った弁当が四銭五厘、合計四十九銭五厘、持って来た一円二十銭のうちから差引き七十銭五厘がまだ蝦蟇口の中に残っていた。続いて今度ここに来るについての費用を計算してみた。
25.0…………………………認印
22.0…………………………名刺
3.5…………………………歯磨および楊子
8.5…………………………筆二本
14.0…………………………硯
1,15.0…………………………帽子
1,75.0…………………………羽織
30.0…………………………へこ帯
14.5…………………………下駄
――
4,07.5
これに前の七十銭五厘を加えて総計四円七十八銭也と書いて、そしてこの金をつくるについて、父母の苦心したことを思い出した。わずか一円の金すら容易にできない家庭の憐むべきをつくづく味気なく思った。
夜着の襟は汚れていた。旅のゆるやかな悲哀がスウイトな涙を誘った。かれはいつかかすかに鼾をたてていた。
翌日は学校の予算表の筆記を頼まれて、役場で一日を暮らした。それがすんでから、父母に手紙を書いて出した。
夕暮れに校長の家から使いがある。
校長の家は遠くはなかった。麦の青い畑のところどころに黄いろい菜の花の一畦が交った。茅葺屋根の一軒立ちではあるが、つくりはすべて百姓家の構えで、広い入り口、六畳と八畳と続いた室の前に小さな庭があるばかりで、細君のだらしのない姿も、子供の泣き顔も、茶の間の長火鉢も畳の汚れて破れたのも、表から来る人の眼にみなうつった。校長の室には学校管理法や心理学や教育時論の赤い表紙などが見えた。
「君にはほんとうに気の毒でした。実はまだ手筈だけで、表向きにしなかったものだからねえ……」
と言って、細君の運んで来た茶を一杯ついで出して、「君もご存じかもしれないが、平田というあの年の老った教員、あれがもう老朽でしかたがないから、転校か免職かさせようと言っていたところに、ちょうど加藤さんからそういう話があるッて岸野君が言うもんだから、それでお頼みしようッていうことにしたのでした。ところが少し貴君のおいでが早かったものだから……」
言いかけて笑った。
「そうでしたか、少しも知りませんものでしたから……」
「それはそうですとも、貴君は知るわけはない。岸野さんがいま少し注意してくれるといいんですけれど、あの人はああいうふうで、何事にも無頓着ですからな」
「それじゃその教員がいたんですね?」
「ええ」
「それじゃまだ知らずにおりましたのですか」
「内々は知ってるでしょうけれど……表向きはまだ発表してないんです。二三日のうちにはすっかり村会で決めてしまうつもりですから、来週からは出ていただけると思いますが……」こう言って、少しとぎれて、
「私のほうの学校はみんないい方ばかりで、万事すべて円くいっていますから、始めて来た方にも勤めいいです。貴下も一つ大いに奮発していただきたい。俸給もそのうちにはだんだんどうかなりますから……」
煙草を一服吸ってトンとたたいて、
「貴下はまだ正教員の免状は持っていないんですね?」
「ええ」
「じゃ一つ、取っておくほうが、万事都合がいいですな。中学の証明があれば、実科を少しやればわけはありゃしないから……教授法はちっとは読みましたか」
「少しは読んでみましたけれど、どうもおもしろくなくって困るんです」
「どうも教授法も実地に当たってみなくってはおもしろくないものです。やってみると、これでなかなか味が出てくるもんですがな」
学校教授法の実験に興味を持つ人間と、詩や歌にあくがれている青年とがこうして長く相対してすわった。点心には大きい塩煎餅が五六枚盆にのせて出された。校長の細君は挨拶をしながら、顔の蒼白い、鼻の高い、眉と眉との間の遠い客の姿を見て、弱々しい人だと思った。次の間では話をしている間、今年生まれた子がしっきりなしに泣いたが、しかし主はそれをやかましいとも言わなかった。
襁褓があたりに散らばって、火鉢の鉄瓶はカラカラ煮え立っていた。
中学の話が出る。師範校の話が出る。教授上の経験談が出る。同僚になる人々の噂が出る。清三は思わず興に乗って、理想めいたことやら、家庭のための犠牲ということやらその他いろいろのことを打ち明けて語って、一生小学校の教員をする気はないというようなことまでほのめかした。清三は昨日学校で会った時に似ず、この校長の存外性質のよさそうなところのあるのを発見した。
校長の語るところによると、この三田ヶ谷という地は村長や子弟の父兄の権力の強いところで、その楫を取って行くのがなかなかむずかしいそうである。それに人気もあまりよいほうではない、発戸、上村君、下村君などいう利根川寄りの村落では、青縞の賃機が盛んで、若い男や女が出はいりするので、風俗もどうも悪い。七八歳の子供が卑猥きわまる唄などを覚えて来てそれを平気で学校でうたっている。
「私がここに来てから、もう三年になりますが、その時分は生徒の風儀はそれはずいぶんひどかったものですよ。初めは私もこんなところにはとてもつとまらないと思ったくらいでしたよ。今では、それでもだいぶよくなったがな」と校長は語った。
帰る時に、
「明日は土曜日ですから、日曜にかけて一度行田に帰って来たいと思いますが、おさしつかえはないでしょうか?」
かれはこうたずねた。
「ようござんすとも……それでは来週から勤めていただくように……」
その夜はやはり役場の小使室に寝た。